30 years' holiday

ああ、30代諸兄の休日よ・・・

本質は、「侮り」が見透かされひっくり返されている、ということ(安保法制からWELQまで)

リテラシーって言葉、大っ嫌いなんですよ!」

 

2週間ほど前、私の会社で開いた新メンバーの歓迎飲み会で、ある社員からこぼれたひとこと。

これを聞いたとき、私の中でしばらくもやもやとしていた、いろんなことがつながったような気がした。

 

そしてそれからなんとなくの思考整理を通過し、今文章として残しておくことを決めた。

 

 

WELQの問題はなぜ「悪いこと」として認識されたのか

 

今メディア業界、IT業界を中心に盛り上がっている、WELQ問題に端を発した、キュレーションメディア(どちらかというと、ちょっと前の「バイラルメディア」に近い語義な気もしている)のあり方を問い直す議論。

 

経緯や何が問題であるか、ということはたくさんのメディアやライター/ブロガーさんが指摘・考察している。私は「何が悪かったか」というより「なぜ“悪いこと”だと認識されたのか」ということについて考えていた。

 

私の結論は、「利用者を侮っていることが見透かされたから」というもの。 

 

 

「利用者を侮っている」ことを具体的に記そう。

 

 

インターネット上で情報を調べるとき、そこには利用者の何らかの「必要性」が発生している。

そのとき、求めている答えにたどり着くのが早ければ早いほど、便利なのは間違いないし、ゴミみたいな情報に行き当たってしまったときの不快感も同じだ。それが重要・緊急であればなおさら。

 

私自身も経験したことだが、子どもが深夜に急に体調を崩したとき、病院に連れていくべきか、救急車を呼ぶべきかなど判断し、適切な応急処置を知るために真っ先に頼りになるのは、やはりインターネットだ。

吐き続けている、苦しんでいる、何かを訴え続けている。そんなときの最適な初手を伝えようという志で情報提供をしている医師や、専門サイトはたくさん存在している。

 

それにも関わらず、検索して上位表示されるのは「~だそうです」「~と言われています」「~とのことです」だらけの記事ばかり。オイオイオイ、死ぬぞ。

 

自分たちのサービスを使ってくれるユーザーに対して、いったいどんな気持ちを持ってコンテンツをつくっていたのか。PV稼ぎ要員=広告価値を上げる糧としてしか見ていなかったのか。

 

 

WELQ炎上もヒラリー敗北も安保法制成立も、根は同じ

 

前置きが長くなってしまったが、ここから主題に戻る。

 

今回のWELQ炎上の件と、米大統領選でヒラリー氏が優勢と伝えられながら落選した件、昨年大規模なデモがありながら安保法制が成立していった件、どれも根底にあるものは同じなんじゃないか、というのが冒頭の「リテラシー嫌い」発言からたどり着いた、私の現在地だ。

 

WELQは「こうやっとけば検索したユーザー釣れるでしょ」という、Webリテラシー格差に基づいた、リテラシー弱者への侮り。

大統領選は「大手メディアがトランプの危険性を煽ってるんだから大衆は“賢明な判断”をするでしょ」という、政治リテラシー格差に基づいた、リテラシー弱者への侮り。

安保法制反対デモは「これだけ正しいことを言っているんだから、世間ももっと味方するでしょ」という、社会リテラシー格差に基づいた、リテラシー弱者への侮り。

 

そして、上に挙げた例はすべて、「侮り」ゆえの敗北を喫した。なぜならば、彼らが侮っていた「弱者」は、数の論理でいえば「強者」であり、彼らとは単に世の中を見る「ものさし」が違うだけだからだ。

 

そして、「リテラシー」とう言葉が象徴する強弱関係がひっくり返されるさまは、「弱者」とされた人たちによる静かな反撃のようだし、最高に民主主義的だと思う。

 

政治やビジネス(特にマーケティング)の場面において、特権意識を持った供給者による需要者への「侮り」が見透かされ、ひっくり返されていくこと。その結果として「利用者にとって本当に価値あるもの」がまっとうに成長していくなら、きっといいことだ。

 

もちろん、「数の論理」による過ちもあることだろうし、特定の意図によって一方的な方向に進んでいく危険性もある。だけれど、それも自分の選択に対してひとりひとりが責任を持つための、ひとつのプロセスなんじゃないだろうか。

 

まとまりのない文章となってしまったが、マーケティング/PRを生業にする者のひとりとして、自分自身にも染みついてしまっているであろう「侮り」という感覚への自戒を込めて。

 

 

※「リテラシー」という言葉に罪はないし、冒頭の社員が持つ「リテラシー」観が適切かどうかは別の話として。